2014-02-12 第186回国会 衆議院 予算委員会 第6号
この人が、日本の限られた財界人に非常にホットな国際問題のニュースをCIAから情報を得てリポートする、その会がありまして、私は、敬愛していた賀屋興宣先生に推挽されて、そこに加わることができまして、そこからその詳しい情報を聞いたんです。 これは、ムルマンスクで航空識別圏というものの侵犯を許した現地の司令官は、即座に死刑になりました。
この人が、日本の限られた財界人に非常にホットな国際問題のニュースをCIAから情報を得てリポートする、その会がありまして、私は、敬愛していた賀屋興宣先生に推挽されて、そこに加わることができまして、そこからその詳しい情報を聞いたんです。 これは、ムルマンスクで航空識別圏というものの侵犯を許した現地の司令官は、即座に死刑になりました。
高橋是清の話が出ましたが、実は、あのときの大蔵の事務次官というのは賀屋興宣先生だった。私は賀屋さんに私淑した一人ですけれども、あれは初めて統制経済をやったんですね、戦争の近いこともありましたけれども。
独立回復後は、国会でも全会一致で、それこそ共産党から社会党の人たちまで全部賛成をして名誉回復を図って、そしてA級戦犯と言われた人たちの遺族にも恩給が支給されるようになりました、A級戦犯の中には、絞首刑になった人も禁錮刑になった人もいましたけれども、皆、罪を償いました、後に、重光葵さんなどのように大臣になった人も、賀屋興宣さんもそうでしたね、大臣になった人もいらっしゃいましたし、岸信介さんのように総理大臣
そうした中では、総理大臣になられた方、あるいは法務大臣になられた方、例えば岸信介先生、あるいは賀屋興宣先生は法務大臣になられた、こういうことであるわけでございます。 また、いわゆる戦犯として処刑及び獄死された十四名の、靖国神社では祭神と言っておりますけれども、祭神名票が当時の引揚援護局、現在の厚生労働省になるのかと思いますけれども、から靖国神社に送付されたのが昭和四十一年でございます。
しかし、私はもともと故賀屋興宣先生と故広川弘禅先生の後継者として、自由民主党の皆様の手で生み育てていただきました。政党や選挙区をいろいろと変える人を、そのときそのときの時流に乗って目先のきく政治家と思う方も多いかもしれませんが、私は愚直なまでにいちずの道を走ってまいりました。それが政治家としての生きるべき道だと信じているからであります。
私も実は、個人的な話で恐縮でございますが、厚生政務次官をしておりましたときに、賀屋興宣という方から、ビルの上の水槽、あの水槽の中でちょうど人間一人が入って掃除するようになっておりますので、あの中で自殺した人がいまして、ビルで三カ月ぐらい人間のスープを飲んでいたと。だから、私は、ビルで防火責任者というのがあるんなら、飲料水責任者というのを各ビルでつくったらどうか。
そして、昭和十七年の委員会での提案理由説明を賀屋大蔵大臣がやっておられますけれども、これを見て、片仮名だとかその内容よりももっと驚きました。大臣はごらんになったことがあるかどうか知りませんが、参考までにちょっと長いけれども、その一部分を紹介してみます。
しかし、今前段の話を聞いておりまして、ふと思い出したのが、賀屋興宣元大蔵大臣が、国内問題はどうにでもなるけれども事外交の道を誤ると大変なことになる、私は特に日中の問題に関して戦費調達のいわば責任を負ってやってきた、これが将来五十年、百年にわたって大変な禍根を残すという、このことに私は今大変恐れおののいているという話をお聞かせ願いました。
○尾辻秀久君 それじゃ突然、それこそまさにまた突然になりますけれども、A級戦犯だった賀屋元法務大臣、途中で御本人が固辞されたんで勲章をもらっておられないけれども、政府として勲章を上げようとしましたね。そういう話を聞いて総理は率直にどういうふうにお感じになりますか。
○沓脱タケ子君 これは時間があるとゆっくり聞いてもらうといいんですが、昭和十七年一月二十四日、当時の七十九帝国議会の衆議院の議事録で、賀屋国務大臣がこの税の創設について発言をしておられますが、そのときには十六燭光の電灯四つ、ガスの七輪二つ、これは三円以上であってもそういう御家庭は免税にすると明確に言っておられます。
だから、戦争中といえども、例えば東条内閣時代の賀屋興宣蔵相、小磯内閣の石渡荘太郎さん、あるいは鈴木内閣の広瀬蔵相等々、これを一貫して守ってきた。
ちなみに、これは昭和十三年二月二十八日の会議録でございますが、それを見ますと、当時の川崎という委員がこういう質問をし、またそれに対して賀屋国務大臣が答弁をいたしております。長いので一々は読みませんが、その一部を読みますと、こう言っております。
当初、昭和十二年スタートのときには、比較的ぜいたく品、奢侈品と認められる物品、それを第一種、第二種に分けて、言うならば戦争の費用のためにということで、当時は賀屋大蔵大臣のようでございましたが、御議論がございました。
しかし、その共同声明をつくるまでに、田中元総理が北京に飛んでいってつくる前までは、特に自民党は、もう名前を言ってもいいが、亡くなられた賀屋先生等を中心に、日中の国交回復は反対だ、これをやると中国は五百億米ドルの賠償を日本に要求してくる、これでは日本は立っていけない、また戦争のような惨禍に陥るくらい惨たんたる目に遭うから、その中国賠償問題一つ考えただけでも国交正常化はやるべきじゃないという声が、当時圧倒的
そのときの大蔵大臣は賀屋興宣さん、政務次官が太田正孝などという歴史的人物が並んでおって、こういう悪税をつくり上げたわけでありまするが、これがだんだん高額の税金になって、もう戦争に負ける昭和二十年あたりになりますると、この入場税がべらぼうに引き上げられて、いわゆる一円以上は実に二〇〇%なんですね。
その原因について、大蔵省の大先輩であり自民党の長老であった賀屋興宣氏は、朝日のカルチャーセンターでの講演でこう言っておられます。「文民統制がなかったこと、そして軍備拡張などがあると、企業などには利益がふえるものが出る、もうかるものが出る。会社には都合がいいし、軍備拡張論についていけという追随論者というものがたくさん出てきます。
特に閣議決定の際の発議者というのですか、賀屋氏の前後のそういう言動、彼のかつてのそういう役割りというものを考えた場合、もう二度とそういう戦争があってはならないんだとか、私が申し上げておるいわゆる平和的な立場からやっておるとはどうしても理解できなわけでございますので、特にこの問題について、閣議了解のときのこの目的というものは一体どこにあったのか。
そこで、この閣議決定でございますが、これもはっきり申し上げて、われわれにとっては名うての軍国主義者と言ってもいいというように思うわけでございますが、賀屋興宣氏がこの閣議了解でも重要なそういう役割りを演じた、こういうように言われておるわけでございますが、そういう意味で、閣議了解の目的ですね、どういう目的でこの閣議了解というものが決定されたのか、その趣旨、目的というものをこの場で再度ひとつ確認をしたい、
閣議了解ということがやっぱりあなた方お役人だから頭にあるようですけれども、先ほど申しましたように、この閣議了解の性格そのものが賀屋元A級戦犯だった法務大臣とそれから田中角榮、いま刑事被告人ですね、このお二人が発議してつくったもので、サ条約あるいはポツダム宣言等々にかかわりのある大問題だ。
○上田耕一郎君 当時の法務大臣は賀屋興宣氏です。大蔵大臣は田中角榮氏。この二人の発議でこの閣議了解ができた。賀屋興宣氏という方はA級戦犯で無期刑に処せられた人物。御本人がA級戦犯で無期なんですよ、その人が法務大臣になった。このときに七つの団体がいろいろ陳情して、法務大臣として受けたわけですよ。その七つの団体のうち二つ、巣鴨会と遺族会は賀屋さん自身が会長なんですよ。
特に大東文化大学の問題につきましては、久保議員の方から、後援会長には岸信介という方がおられる、副会長には福田赳夫というような方も五十年史を見ると名を連ねられており、以下賀屋興宣、ずっとこう並んでおられるわけであります。こういう風土がと申しますかね、右翼的な風土があれば学則ぐらいは踏みつぶしてもいいというようなことになればゆゆしき問題だと。